住民1人の集落3月1日読了時間: 6分更新日:3月22日そこに辿り着く唯一の峠道は、未舗装で土砂崩れを繰り返した跡が続いた。隣の集落とは山道で10km以上も離れており、三方が山に囲まれ、目の前には広大な太平洋が広がるまるで絶海の孤島のようなシマ(集落)である。2026年2月22日奄美フィールドワーク観察会(正式名称がいつも覚えられない)の散策コースは住用町・青久だった。月に一回実施される草花を調べながらのハイキングに、僕は時々参加させてもらっている。毎回参加者は20〜30名で、そのほとんどが60歳以上の兄姉ンキャだ。青久集落には1世帯1名だけ住人がいらっしゃる。95歳のおばあちゃんだ。僕は10年前に一度青久を訪れたことがある。移住して間もない僕は上記のような基本情報を耳にしてからずっと気になる存在だったが、興味本位で行くのは失礼だと思い訪問は控えていた。しかしある日別の用事で青久の近くまで来た際に興味が勝ってしまい僕は足を伸ばしたのだった。集落に入り「誰にも会いませんように」と祈りながら端まで行って引き返そうしたら、たまたま外に出ていたおばあちゃんと会ってしまった。当時80代後半のおばは突然の来訪者をセールスと間違えて「要らないよ」と呟きながら僕に目を合わせようともしてくれなかった。今思えばかつてこんな僻地までセールスは来たことがあったのだろうか?と考えるが、その時の僕は冷静でなかったし申し訳ない気持ちでいっぱいだった。僕は帰る際に方言で挨拶をしたらおばはようやく笑顔を取り戻してくれたものの、僕にとっては苦い思い出の地でもある。今回の散策コースは峠から95歳の住む里を目指し、持参した弁当を集落で食べてから引き返すルート。観察会の人が事前におばに挨拶をしてくれていて、彼女は我々のために自宅のトイレを貸してくれるそうだ。雨予報は外れ小春日和の中、僕らは峠道をずんずんと下り歩いた。もちろんこの会のメインは季節の草花の観察で、ここ最近暖かい日が続いたせいで新芽や花や蕾が道中たくさん綻んでいた。その度に参加者一同は事前に配布された観察図鑑を出し立ち止まり、詳しい人に植物名を聞き書き記していった。そんな調子で観察を繰り返しながら2時間半経った頃、シイノキの森に覆われていた視界は一気に開けた。陽光が差し込み海の音も耳に届いた。大きな門の残骸を通過し集落に入る。おばあちゃんの旦那であるおじいちゃんが元気だった10年以上前までは集落内で種牛を放牧しており、来客がある度にたくさんの牛が寄ってきたらしい。まるでサファリのようだ。このゲートは家畜のために用意されていたものだと聞いた。薮を抜けついに集落の全容が掴めた瞬間、以前訪れた時のことをすぐに思い出した。あの時と変わらない景色だったからだ。両端の山々が無くなった先にある大きな空、遠浅の砂浜、太平洋の荒波の音、かつて家々や墓石が並んでいたであろう広々とした空き地、そしてその奥にこじんまりとした背の低い家が一軒。青久の丸い浜石を使った長い石垣が集落と外海を遮断している。これは奄美群島日本復帰事業の第一号として地元住民で施工されたものだ。当時は10世帯近くあった集落をぐるりと囲み高潮から守る頑強なその塀は、現在ではおばのためだけに存在している。おばの家周りは手入れが行き届いていた。クロトンなどで植栽し屋敷囲いされ灰色の砂が敷かれた庭や、畑や薪も綺麗に整っている。集落内は至る所にアマミノクロウサギの巣穴が点在する。石垣をよじ登るとそこは糞だらけでその建材の一部と言っても過言でないほどだ。ここはウサギのコロニーと化している。彼らは天敵であるハブなどから身を守るために見通しの良い高台やブロック塀の上で用を足すらしい。おばの息子さんと思われるおじさんがテラス席に黒糖やお菓子を並べて到着した我々を迎えてくれた。我々は荷物を下ろし、あちこちに着座し始めた。僕は窓越しに家の中をそっと覗いた。するとあのおばあちゃんの頭がひょこっと見えたのだった。すぐに僕に気づくと、ジェスチャーで窓を開けて入ってきなさい、と指示した。その表情はにこやかで、背中は愛らしい丸みを帯びていた。おばはゆっくりゆっくり歩きながら僕に近づきお菓子がたくさん入ったお盆を渡してきた。元気な声で「食べきれなかったら、持って帰ればいいが」とだけ言ってくれた。僕はお礼を言いながら、おばに話しかけた。前回の訪問の話をし、改めてお詫びをした。驚くべきことに、おばは僕の声をしっかりと聞き取って頷いた。耳に補聴器はついていない。本人はその出来事を全く覚えてなかったが、僕はそれでも良かった。丸い背中で部屋の中を物色し見つけたものをおばは僕に見せてくれた。石垣施工時の写真だった。七十年前のモノクロ写真で、青久住民と近隣の集落から出稼ぎに来た若人三十人ほどが映っている。子どもも何人か居る。「おばあちゃんはどれ?」と僕が聞いたらおばはしわしわの手で写真の中に居る眩しそうに目を細めている若い女性を指差した。「若い!」と僕が言ったら、「あんたはもっと年を取りなさい」と返された。どういうことだろう。苦労が足りない、ということかな。おばとのトークもそこそこに、観察会メンバーみんなで持参した弁当を食べる時間となった。僕は住居の跡地の一角に生えている松の木の木陰に座り、持参したバーナーでお湯を沸かしカップラーメンを啜った。こういったものは外で食べるだけで格段に美味しく感じる。石垣の前で記念写真を撮影した後、帰路に立つ時間となった。僕は最後におばの元へ寄った。「生まれもここ?」するとおばは答えた。「そう。だから死ぬのもここ。街には行かん」「気をつけて。また来てね」七曲りの峠を戻りながら、道沿いに伝う電線を目で追った。おばあちゃんがいなくなったらこの電線も撤去するのだろうか。そして集落の名前はなくなり、この地は人々の記憶からも忘れ去られるのだろうか。昭和30年の写真におばがおり、生まれもここということは、95年の人生の大半をこの集落で過ごしていることになる。そんなおばの今までの人生を勝手に想像した。おばは何を思ったのだろう。青久から一つまた一つと世帯がなくなっていき、住人が減った時。ついに住人が自分と旦那さんだけになった時。ご主人が亡くなり、自分ひとりになった時。それでもこの辺境の地にひとり住んでいるおば。生活インフラや息子さんの介護などいろんな人の手を借りながらも、自分で決めた覚悟を押し通しているおばがなんだかカッコよかった。青久集落は最先端だ。近い将来、地方に住む日本中の多くの人たちに同じ状況が迫るだろう。その時我々はどんなことを思い、どう行動するだろうか。今夜、おばが一人布団に入り集落唯一の明かりを消す。するとあちこちの巣穴からわらわらとクロウサギが現れ、家の周りを歩き回る。居心地のいい場所を見つけたものから順に気持ち良く糞をし始める。おばは久々の賑やかな来客に疲れ、波音を枕にしていつもよりも早く眠りにつくのであった。